栄一郎はバシッと自分の膝を叩き、石段から立ち上がった。
「とにかくこれは命令だ。俺は社長の息子なんだからな。つべこべ言わねぇでついて来いっ!」
その横暴かつ一方的な誘いに、早苗はただポカンと口を開けるだけだった。
あんなに健全的な日曜日を過ごしたは何日、いや何週間、いや何年ぶりだっただろうか。少なくとも、栄一郎にとっては遥か昔の、思いも出せないずいぶんと前の事のような気がする。朝の七時には起床し、待ち合わせの二十分前には到着していた。
「俺を待たせるなんて、イイ度胸してんじゃねぇか」
「時間には間に合ってると思うけど」
ムッと言い返す言葉を鼻で笑う。
「ちったぁマシな服装してきたんだな」
「そりゃあ名古屋に出るんだし」
食堂の残飯をもらって糊付けしたのであろうパリッと皺の無い襟付きのブラウスに膝丈のスカート姿。田舎臭さは消えてはいないが、それほど野暮ったくも見えなかった。それなりにお洒落をしてきたつもりなのだろうと思うと、栄一郎はなぜだかくすぐったいような気分になった。
「アンタこそ、いつものだらしない格好はどうしたのさ。酒も呑んでないみたいだし」
「あのなぁ、人をアル中みたいに言うな。それになぁ、前から言いたかったんだけど、俺の事を」
そこまで言って、口を閉じる。
いや、やめておこう。それを咎める必要はない。
栄一郎の事をアンタなどと呼ぶ女工は早苗くらいのものだ。思えば彼女は、最初っから栄一郎に対して、少なくとも敬うような態度は取らなかった。
自宅や工場では、誰もが栄一郎を御曹司扱いする。中には若様だとか若社長だなどと呼んで手揉みをしてくる職制もいる。ヘコヘコと頭を下げる年上の相手に対して、心底ではどう思っているのやら、と冷めた感情が沸いたりもした。
早苗には、そのような媚諂いがない。
栄一郎は、不快だとは思わなかった。むしろ。
「何よ? 途中でやめるなんて、気になるじゃない」
言いかけてやめてしまった相手を見上げる。
「別に大した事じゃねぇよ」
「言いかけたんなら言いなさいよ」
「うるせぇなぁ。汽車に乗り遅れるぞ」
言いながら大股で歩く後ろを、早苗は慌てて追いかけた。
日曜の大須は賑わっていた。新天地で映画を見て、首つり屋を覗いてまわった。
「へぇ、これが珈琲?」
真っ黒な液体に目を丸くする早苗の表情に思わず笑ってしまった。
「珈琲も飲んだことねぇのかよ」
「あるワケないじゃん」
ブスッと不貞腐れ顔で、それでも香ばしい香りにホウッと息を吐く仕草。思わず見惚れた。
俺は何をやっているんだ?
せっかく大須に来たのだからとせがまれて、大須観音まで歩いた。
「これは仮本堂だ。落慶式は来月だったか?」
「へぇ」
「つまんねぇだろ」
「でも記念にはなる。みんなに自慢できるし」
「それだったらテレビ塔の方が自慢になる」
「テレビ塔って、六月にできたばっかりの?」
瞳がクリクリと輝く。
「のぼった事ある?」
「いいや。混んでるらしいからな。待つのは嫌いだ」
「だろうね」
「行ってみるか?」
「日曜だよ。待つのは嫌いなんでしょ」
「どうしてもって言うんだったら連れてってやるよ」
「いいよ別に」
「素直じゃねぇな」
言って腕を掴んだ。
「来いよ」
掴んだままズンズンと歩き出す栄一郎に引き摺られるようにして、早苗は人混みの中を必死に小走りするハメとなった。
テレビ塔はやはり混んでいて、並んでかなり待たされた。だがその待ち時間を、栄一郎は苦痛だとは思わなかった。なぜだかはわからない。ただ、ようやく辿りついた展望台からの眺めと、その景色に感嘆の声をあげる早苗の表情が嬉しかったのは確かだ。
「すごいっ」
溜息と共にそう呟く声を聞きながら濃尾平野を眺めていると、自分の心までもが広くなるような錯覚に陥った。東京なんて知りもしない大都会に無意味な執着心を抱いている自分はひどくちっぽけな人間で、そんな憧れなどどうでもよくなってしまいそうになる。
「すごかったね」
「まぁな」
地上に戻っても早苗の興奮はなかなか醒めないようだった。
「でも一人五十円なんて、値段もすごい。二人で百円。春秋が買える」
「春秋? あの分厚い小説ばっかりが載ってるヤツか? お前、あんなの読んでんのかよ?」
「いつもじゃないよ。お茶を習いに行ってる先生の奥様が時々貸してくれるの」
「お前、お茶なんか習ってんのか?」
「そうだよ。結構みんな習ってる。本当は就職する時に習わせてくれるって募集人の人が言ってたのに、実際には習わせてくれないんだよね」
「それを俺に言うのか?」
「だってアンタ、社長の息子でしょ」
「ちぇっ、そんな事言われるんだったらテレビ塔になんてのぼらせるんじゃなかった」
「それは感謝してる。景色もすごかったし」
「空いてたら文句無しなんだけどな」
「それは最初から覚悟の上でしょ」
そうして唇に指を当てる。
「でも、アメリカ人が居るとは思わなかった」
「あぁ、アメリカ村が近いからな」
「アメリカ村?」
「さっきの大須の近くにあるんだ」
アメリカ兵でも一般将校などが暮らす村で、それでも日本人にとってはまるで映画のセットなのではないかと思われるような、それはそれは異国情緒たっぷりの住宅街なのだとか。
「アメリカ人、いつまで居るんだろう」
「やめようぜ、そういうシケた話はよ」
大きく伸びて、話を遮る。せっかく二人で出掛けているのに、そんな話はしたくない。
「それよりよ、他に行きたいとこあるか?」
「そうだなぁ。あ、名古屋城」
「は?」
途端、栄一郎の顔が曇る。
「名古屋城。お城が見たい」
「城なんかねぇよ。空襲で消えた」
「でも少しくらいは何か残ってるでしょ?」
「本丸も何にもねぇのに行っても無駄だ」
「行ってみるくらいいいじゃない」
「無駄足だよ」
「何よ、行きたいところはないかって聞いてきたのはそっちじゃない」
「俺はお前のためを思って言ってんだ。行っても無駄なところに連れて行こうとは思わねぇよ」
「無駄かどうかはわからないでしょう?」
「わかる」
「わからない」
「わかる」
「わからないっ」
人目も憚らずムキになる。
「わかる。行っても無駄だ」
「何よ。ケチ」
「ケチで結構」
「何よ、何か行きたくない理由でもあるの?」
「無い」
「だったらいいじゃない」
食い下がる相手に舌を打つ。そうして口を尖らせた。
「休みの日にまで学校になんて行きたかねぇんだよ」
「え? 学校?」
学校に行きたいなどとは言った覚えはない。
「名古屋城の兵舎跡に本部があんだよ。あと文学部とか教育学部とか」
「へ、へぇ、そうなんだ。じゃあアンタ、毎日名古屋城まで通ってんの?」
「俺は経済学部だから場所が違う」
「じゃあいいじゃない。いつも通ってる場所じゃないんでしょ?」
「学校のヤツらがウロウロしてる場所になんて行きたかねぇんだよ」
せっかく二人で出掛けてんのに。
「いいじゃない」
早苗は口を尖らせ、そうして少し瞳を細める。
「大学。文学部かぁ」
「本当は、中卒で工場勤めなどせずに、高校へ進学したかったのかもしれない」
栄一郎の声は、瑠駆真へ向かって語っているようで、でも同時に自分の胸の内の誰かに言い聞かせているようでもある。想い出に浸る彼にとっては、もはや瑠駆真など朧げな存在にと成り下がっているのかもしれない。それでも、まさか彼を無視して駅舎を出るワケにはいかない。
瑠駆真は机に肘をついて欠伸を噛み殺した。
「読書を好むという事実を知ったのは、確かもう少し後になってからの事だったはずだ」
彼女は、大学生である栄一郎よりもはるかに多くの本を読んでいた。中卒とは思えないほど多くの知識を持っていたようにも思える。夫木和歌抄などといった和歌集に収められている一首を教えてくれたのも彼女だった。
その日を境に、栄一郎は度々早苗を外出に誘った。何だかんだとは言いながらも誘いに応じる早苗の態度に、栄一郎は確信と優越を感じていた。だから、工場の重役からその話を聞いた時には、愕然とした。
「山脇早苗という女工には注意した方がよろしいですよ」
含みを持たせた相手の言葉に、栄一郎は露骨に眉を潜めた。
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